上京サラリーマンTOKYOサバイバル日記

社会人から東京→静岡へ転勤 日常生活の記録です

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小説を読むのが結構楽しい件

最近久しぶりに小説を読みだした。ここ数年は小説なんか読んでも何も変わらないだろ、時間の無駄だ、と思っていた節があった。でもな、よく考えてみろ、娯楽なんてことごとくそんなもんだ。娯楽と実用性は切り離して考えた方がいい。社会人になってからの自分は無様な学生時代の反動からなのかあらゆるものに対して効率やコストパフォーマンスを求めていた。その結果はご覧の通り。大したQOLは得られず、むしろ貯金は減るわ、友達は大してできないわで散々な結果に終わっている。あっという間に年齢も27歳になり「今から変わることなんで無理」だとある種の人生に対する諦めのような気持ちもできてきた。変わることを諦め、今自分の持っているカードを使って生きていこうと決心をしているところだ。変にふわふわするのではなくて地に足をつけて生きていこうというわけである。結局これが大人になるということなのかもしれない。そういった意味では自分の職業選択は最適解だったように思える。全てに置いて「それなり」が約束された身分であるので仕事をやめない限りは浮き沈みは少ないだろう。以前の自分ならレールの上をただ歩くだけの人生なんて嫌だと駄々をこねただろうか。昔の自分に言いたいのだけれどもレールの上をただ歩くというのもなかなか大変なものだよ。学生時代の尖った部分が社会と接することで擦り減って少しづつ丸くなっているのを実感している。これが良いことだったのか悪いことだったのかは何十年も立たないとわからない。今は自分に与えられた役目をしっかり果たすだけだ。

 

少し話が逸れたが小説はそんな自分にぴったりの趣味である。本さえあればいくらでも時間を潰せる。もちろん読むことにも体力が必要だが、それほど疲れない。一人でもできる。ここ数年インターネットを見て暇つぶしをしてきたが流石に最近は疲れが出てきた。見栄や自己顕示欲、嘲笑、罵倒、本音をぶつけ合うという行為は時に必要なのかもしれないがそんなものに毎日晒されていると精神を病む。仕事とプライベートだけで精一杯なのに、その上情報の洪水に溺れて一体どこで気を休めればいいのか。だから今年はコスパや合理性を度外視してたとえ誰かにケチをつけられようと自分のやりたいことをやっていこうと思っているところだ。読書家とまではいかないけれど文章を読むことは昔から好きだった。誰かの頭の中を覗くのは楽しいことだ。作者と自分の共通点を見つけては自分だけではなかったんだ!と寂しさも少しは紛れる。もちろん、私の生活圏に読書好きなんてあまりいないし、デートの話題にもならないと思う。でもこれでいいのだ。楽しいからやるのだ。誰かの尺度に自分を無理やり合わせる行為に疲れてしまった。媚びへつらって生きるのは嫌だ。

 

ネガティブな印象を持ちがちだが、諦めたり損切りをするというのは悪いことばかりではないのではないだろうか。仏教において諦めるとは「明らめる」と書くこともあるそうだ。投資だって上手な人ほど傷が浅いうちに損切りをする。世間では例の太ったバスケ部の顧問のせいで「諦めたらそこで試合終了だ」といったクソみたいな言説が流布されているようだが、平成も終わるというのにカビ臭い根性論にいちいち付き合ってられない。後半45分5点差のサッカーの試合で負けてるチームは勝つことなんて考えないよね。普通一点返して次につなげようとか、次のゲームのこと考えるよね。ばーか、ばーか。

 

小説を昔のようにまた読むようになって生活にぱっと明かりが灯ったような気がしている。